6人の作家によるショートショートの扉

第一回 スイミングコーチ 江坂 遊

 翠(みどり)ちゃんは、甘(あま)いものが大好きな女の子。だから、ほんっと、〝甘いもの″情報には気を配っています。六つ年上のお姉ちゃんが、高校生になったらおこづかいで〝ケーキバイキング″に行っちゃうんだもん、それがすんごくうらやましかったんだもん、翠ちゃん、自分では買えない(おこづかいがそんなにない)〝甘いもの″関係へのアンテナは、やたらと張りめぐらせています。
 だから。近所の、「ここはおいしい!」って折り紙つきのケーキ屋さんに、謎(なぞ)のケーキがあるって評判がきこえてきたとき、翠ちゃんはすぐにお母さんをひっぱって行って、そのケーキを買ってもらいました。
 謎のケーキ。
 それはまあ、とても〝みすぼらしい″ケーキ、でした。うん、基本は、カップケーキ、みたいな形なのね。でも、クリームのデコレーションも何もない、それが、むき出しの形で、そこにある。それだけ。フルーツも何もついていない。
 ですが、そのケーキには、たったひとつ、おかしなことがあったのです。
「これは倍倍ケーキです」
 そんなポップが、ついている。……けど……倍倍ケーキって、何?
 いきおいでお母さんにこれを買ってもらった翠ちゃんですので、いまさら、それをケーキ屋さんのひとに聞くわけにもいかず。
 でも。ぱくっ。ひとくち、食べてみたら。
 うわあ、何だこれ、何だこれ、何だこれ!
 そのケーキは、信じられないくらい、おいしかったのでした。
 うわあ、あり得ないこのおいしさ、どうしよう、どうしよう、本当においしいよお。
 ぱくぱくぱくぱく、もし、これが紙に包まれていたカップケーキなら、まちがいない、その紙まで食べてしまったでしょうっていきおいで、翠ちゃんはこのケーキを食べ……とは言うものの、全部、食べることが、できませんでした。
 なぜって。
 最後に、ぱくんってケーキを全部口の中にいれようとしたとき、ケーキのはしっこに、黒いものがいるのがわかったので。
 うわ、蠅(はえ)だ。いつ来たんだろう、甘い匂(にお)いがしたからかなあ、蠅が、このケーキのはしっこにいて、なんか、手をすり、足をすりしている。
 蠅が……さわっていたんだもん、ここ……。
 というわけで、翠ちゃん、蠅がたかっている一センチ部分くらいを手でちぎって、あとはぱくって食べちゃって……そして。
 翌日は、もう、追想にひたっていました、翠ちゃん。うん、そのくらい、おいしかったんです、あのケーキ。うん、ふつうの倍、いやもっとおいしい、だから、倍倍ケーキなのかなあ。次の日も、翠ちゃんはあのケーキのことを思いだすと、なんかほやっとしちゃって。で、さらに、その次の日。翠ちゃんはおどろきます。なぜって、翠ちゃんの机の上に、謎の物体があったのですから。謎の……これは、ケーキか?
 どっからどう見ても、これはケーキの一部だ、スポンジ部分だっていう物体が、
何故か机の上にあり……翠ちゃん、おどろきます。
 同時に。理屈(りくつ)ではない、深いところで、翠ちゃんはわかってしまったのでした。
 うん、これは、あの、ケーキだ。蠅がたかっていたから、あたしが取りのけたやつ、それが、なんだか大きくなって机の上に……って! ああ! だから、倍倍ケーキなのね!
 倍倍ケーキっていうのは、放っておくと、倍になるケーキなんです。多分。一日で二倍、二日で四倍。このあいだ、蠅がたかっていたところを翠ちゃん、ちぎってその辺に捨てて……それが、机の上で、二日で倍、三日で四倍になって、今、塊(かたまり)になって、ここにあらわれた、そんなわけなんだろうと思います。(なんで今までそれがうわさになっていなかったのかって、それ、翠ちゃんにはよくわかります。倍倍ケーキを口にしたひとは、みなさん、ほんのひとっかけらも残さず、きっとこれ、全部食べていたからなんですよね。だから、ゼロになっていたから、倍になりようがなかったんだ……。)
 ……蠅がたかっていたんだよね……でも……そこに蠅がとまっていたからって毒があるわけじゃないし。
 そう思った翠ちゃんは、それでもできるだけ、蠅がたかっていなさそうだったあたりを、ちぎって口の中にいれてみます。ぱっくん。
 おおおっ。おいしいっ! どうしよう、本当にあり得ないようなおいしさだっ!
 ここから先。翠ちゃんは、とてもとても気をつかって、念には念を入れて、〝倍倍ケーキ″を養いました。とにかく、食べすぎないこと! どんなにおいしくても、「倍になるケーキ」なんですから、もとが、ゼロになってしまったらおしまいです。ということは、食べきっちゃいけない。
 翠ちゃんがちょっとがまんすると、倍になるもとの量が増えます。明後日はいっぱいケーキを食べたいなーって思ったら、今日と明日はがまんがまん。
 そんなことをやっているうちに。
 翠ちゃんは、インフルエンザにかかったのでした。ちょっと重症(じゅうしょう)だったので、近所の病院に入院なんてしちゃったのですね。
 インフルエンザで入院したとき。いや、その前、かかったそのときから、翠ちゃんには食欲というものがまったくなく……倍倍ケーキ、も、何日、ほっといたことなのだか。回復して、ふうって思った翠ちゃんが見たのは、何か、異様な景色でした。というか、翠ちゃんが退院する前から、これは世界で大問題になっていたのです。
 おそろしいことに。世界は、カップケーキのようなものに、まみれていました。
 倍倍ゲームというのは、本当におそろしい。
 今日、十センチくらいだったケーキは、明日には二十センチ、明後日には四十センチ、三日後には、八十センチ、一週間たつと十メートルを超え……もちろん、ケーキまみれになってしまった町内会は、この謎のケーキをなんとかしようと分解して捨てたんですが、 そんなことしたら、細かくなった分、捨てられた先でケーキがどんどん増殖(ぞうしょく)するだけ。ひとつのものが倍になるのより、細かくなったものがあっちこっちで倍々ゲームを続けるほうが、そりゃ、ケーキの増殖は大きくて……。
 ……これ……バイバイケーキ、なのかも知れない。このケーキがあると、地球さんバイバイになっちゃう……これは、そういう、ケーキだったんだろうか?
 翠ちゃん、ふっとそんなことを思ったのですが……とき、すでに……。

新井素子

1960年東京生まれ。「あたしの中の……」が第一回奇想天外SF新人賞佳作に入選。「グリーン・レクイエム」「ネプチューン」で2年連続の星雲賞日本短編部門受賞。『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞受賞。作品に「星へ行く船」シリーズ、『未来へ……』『イン・ザ・ヘブン』など多数。